Yの存在理由
その日は雨だった。
どす黒い雲が空一面を覆い尽くし、一つ一つの雨粒はまるで氷のような大きさと冷たさだった。
その大きく冷たい雨粒は止む様子を全く見せず、寧ろ時間が進むごとに勢いが増しているようにも見える。
地面に勢いよく落下し、アスファルトにぶつかった雨は小さなバウンドを2回ほど繰り返すと空の反射で黒く染まった地面に吸い込まれて消えた。
先程立ち寄ったコンビニで買った安い透明なビニ−ル傘は気持ちの分、と言ったところだろうか。
この大粒の雨では可哀想なほど役に立たず、手に持っている傘が煩わしいほどだ。
強い風が路地の隙間を通り抜け私の顔をほとんど叩くように撫でていく。
一歩足を踏み出す度に自分の足首に掛かる地面に溜まった水が鬱陶しくてならない。
止まない雨に対する怒りやら呆れやらで盛大な溜息が漏れる。
しかしその大きな溜息も激しい雨風に連れ去られてしまった。その事に私は眉をしかめると風が大きな音を立てて私の隣を通り抜けていった。
その風はまるで、役に立ちもしない傘を片手に持ち課題をもう片手にぶら下げながらフラフラと歩いている私を嘲笑っているかの様で心底腹が立った。
せっかくの休日にもかかわらず、レポ−トを取るため朝から自分の通う大学へと向かった。
与えられたレポ−トの数は膨大で、「じゃあ頑張って」と軽く言い大きな欠伸をした先生を一発殴ってやろうかとも思った。
私は膨大な数のレポ−トへの怒りを和らげるため、大学内にある洒落たカフェへと足を伸ばす。
そこにたまたま居合わせた友達と数時間によるお喋りを楽しむとレポ−トと先生への怒りも少々和らいだ。
その日は朝から天気が悪かった。
大学に向かうためアパ−トから出た瞬間に「これは降るな」と確実に思ったほどの天気の悪さだった。
そんな天気の悪さを知りながら、あえて私はそれを無視して傘も何も持たず外へ飛び出した。
大学へは歩いて30分ほどで、私はいつも歩いて大学へと向かう。歩きながら目に飛び込む日々の変化が私は好きだった。
ここ最近ずっと天気が悪く雨はほとんど降りっぱなしだった。
たまには雨に濡れるのもいい。考えなしにそう思い部屋を出た私はやはり後から後悔することになった。
友達とカフェ前で別れると、家に帰るためまた歩き出す。
私の手に握られるのは壮絶という言葉がそれはそれは似合うレポ−ト達の姿。
そいつらは私の手に揺られて気持ち良さそうに眠っている。
外に出ようと一歩足を踏み出して私は2時間半ほど前の自分の考えを凄く後悔した。
一番上のレポ−トの上に大きな雨粒がボトリという音を立てて落下してきたのである。
とりあえずコンビニで傘を買ってみたものの、一向に役に立つ様子がない。
家に着くまであと20分はある。しかし、この雨だと歩くのも困難なため30分はかかりそうだ。
私は頭を捻らせある決断をした。
この雨だと渡されたレポ−トが確実に駄目になる、そう考え暇さえあれば通っている喫茶店に入ることにした。
少し道は戻るがこんな激しい雨に打たれ全身ずぶ濡れより断然マシだ、その考えから私は早足でその喫茶店へと向かった。
「いらっしゃいませ」
聞きなれたマスタ−の低く優しい声が店内に響く。
このお店は路地の裏側にある言わば隠れ家的なお店で毎日お客さんが溢れているわけではない。
知っている人にしか知らないこのお店が私はかなりお気に入りだった。
「随分と濡れているね」
カウンタ−席に座った私に水を差し出しながらマスタ−は言う。
「外、すごい雨で」
マスタ−は私の言葉を聞くとゆっくり顔を上げ窓から見える雨粒を見て「そういえばそうだった」と呑気に声を漏らした。
この日もお店にあまり人はいなく、私を合わせて3人のお客だけだった。
「家に帰るのもこの雨じゃ大変だったんで思わず寄っちゃいました」
「久しぶりに顔出したと思ったらそういう訳か。前までは毎日のように来ていたのに」
「大学のレポ−ト仕上げるのに必死で。今日も大学にレポ−ト取りに行ったんですよ。するとこのザマ!」
そう言い私は雨に濡れない様必死で守った膨大な数のレポ−トをマスタ−に見せた。
「大変だね、学生さんは」
マスタ−は軽く笑ってお店の奥へと消えていく。
静かな店内でマスタ−の動きに合わせて聞える靴の音が小さく響いた。
お店は小さい。年季の入った店内はレトロな音楽と雰囲気で埋め尽くされる。
店内の端にある先代から譲り受けたような蓄音機から流れるジャズは今日の天気に合わず軽快で、お店の中だけが妙に明るく感じた。
テ−ブルに片肘を着き私はマスタ−が奥から戻ってくるのをひたすらボ−っとしながら待っていた。
ただボケ−っとしていた私の目の前にいきなり差し出された真っ白なタオルに私は悲鳴を上げるところだった。
手元にあった水を流し込む。私の喉元から出かけた悲鳴も一緒に呑み込んでおいた。
グラスを置くと私は顔を上げる。タオルを差し出したのはマスタ−だとばかり思いこんでいた私は口をあんぐりと開ける。
「…だらしい口じゃの。ちゃんと閉めんさい」
「だ、誰?あの、マスタ−は?」
「マスタ−なら奥で休憩中じゃ。ほれ、タオル使わないんか?」
「ど、どうも…」
私にタオルを差し出したのは見たこともない男だった。
いきなりの男の出現に私は警戒心を露にするも、よく見ればマスタ−と同じ制服を着けている。
そのことから私はこの目の前に居る男がマスタ−以外の店員だということを知った。
しかし前までこのお店はマスタ−以外の店員は誰も居らず、それをマスタ−に聞いたところ「誰かを雇うつもりはないよ」と静かに言った。
それなのにどうだろう、今私の目の前にこの店の制服を着た男が立っているのだ。
「びっくりした?」
マスタ−が奥からにこやかに笑って歩いてくる。
「びっくり所じゃありません。悲鳴を上げるところでした」
私は真剣に言うがマスタ−はやんわりとそれをかわす。
マスタ−が歩く度ふんわりと煙草の匂いが香る。少しだけ甘い、マスタ−の香り。
「新しく働くことになった仁王くん。このお店で雇った最初の人」
そう言うとマスタ−は静かに、それでも楽しそうに笑った。
私はタオルを差し出した仁王という男に目を向ける。
奴はそんな私の視線を知ってから知らずか、黙って濡れたグラスを拭いている。
仁王の銀色の髪の毛は、グラスを拭く自分の手の動きに合わせて小さく揺れている。
小さく揺れる銀色が何だか面白くてずっと見ていると不意に目が合った。
「タオル使わんのか?」
「あ、このタオルどういう意味?」
「風邪引くからそれで拭きんしゃい」
仁王は静かに言うとまたグラスを拭く作業に戻った。また、銀色が揺れている。
「そうじゃろ?マスタ−」
仁王は顔を上げず、手は相変わらずグラスを拭いたままでマスタ−に問う。
「ああ、そうだね」
マスタ−は何が面白いのかニッコリと笑っていた。
私は2人の言っている意味が全く理解できず、一人うろたえた。
「タオルはマスタ−が持って行けと言ったんじゃ」
「そういうこと!ありがとうございます、マスタ−。あ、仁王くんも」
マスタ−は背にある棚からコ−ヒ−豆の入った瓶を取り出し、私向きに直るとにこやかにどうも、と言って笑った。
「ちゃん何飲む?」
「あ、コ−ヒ−で」
私の注文を聞くとマスタ−了解の意味を込めて微笑むと、もう一度見せの奥へと消えた。
私は奥に消えるマスタ−の後ろ姿を見送ってから姿勢を前に正す。
目の前でひたすらグラスを拭いていた仁王は、気付けば私の目を黙って見ていた。
「って言うんか」
「あ、うん」
「マスタ−がよくここに来る女の子がいるって言うとった。だったんじゃの」
「いきなり呼び捨てですか」
「いいじゃろ。多分年も一緒じゃ」
多分、どこか曖昧な仁王の答えに私は一気に力が抜けるのを感じた。
「じゃあ私も仁王って呼ぶよ」
仁王は猫のように喉でクツクツと笑って「お好きにどうぞ」と言った。
マスタ−同様この男も全く掴みどころがない。
空気が漏れ続ける風船をひたすら追い掛け回しているようだ。
5分ほど奥に居たマスタ−は、白地に小さな金の花が散りばめられたコ−ヒ−カップを手に戻ってきた。
「どうしたんですか、それ」
「ちゃん最近レポ−トで疲れているみたいだから、特別」
「わあ、ありがとうございます」
マスタ−は持ってきたコ−ヒ−カップを黙って仁王に渡す。
コ−ヒ−カップを受け取った仁王は、背にある棚から先程マスタ−が取り出した物とは違うコ−ヒ−豆を取り出し、コ−ヒ−を作り始めた。
「このお店でマスタ−以外が作ったコ−ヒ−飲むの初めて」
「仁王くんが作ったコ−ヒ−前に飲んだけど、結構美味しいよ」
冗談を言うようにマスタ−は言って、ふんわりと笑っていた。
仁王の淹れてくれたコ−ヒ−は本当に美味しかった。
マスタ−のコ−ヒ−も本当に美味しい、でも、仁王の淹れたコ−ヒ−も負けず劣らずだと思った。
ほんのり甘い仁王のコ−ヒ−が私の鼻をくすぐる。
「美味しい」
「マスタ−には負けるぜよ」
仁王はまた猫のようにクツクツと喉で笑っていた。
「だから言ったでしょ?」
マスタ−の冗談めかした声が後ろから聞こえる。
一人のお客が今帰ったらしく、お客がいたテ−ブルを白い布巾で丁寧に拭いていた。
お店のドアについている鈴が小さく鳴っていて、それがお客が店から出たことを店内に居る私達に知らせていた。
「それとちゃん」
「はい?」
「雨、止んでるよ」
マスタ−はテ−ブルのすぐ真横にある大きな窓を指してそう言った。
「あ、本当だ」
空はまだ薄暗いものの、さっきまでの雨は一粒も降っていなかった。
店長は小さく笑いながら「良かったね」と言った。
私はまた雨が降り出さないうちに帰ろうと荷物をまとめる。
残り少しとなった仁王が淹れてくれたコ−ヒ−を一気に喉に流し込む。コ−ヒ−の持つ熱さが少しだけ喉に染みる。
「ご馳走様でした」
「…喉熱いじゃろ」
「あ、分かっちゃった?」
「顔思い切り歪んどった」
また、猫を思わせる喉を震わせる笑い。
「水飲みんしゃい」
「どうも」
仁王がグラスに注いでくれた水を飲み干すと私はカウンタ−席から立ち上がる。
「レポ−トが片付いたらまたおいで」
マスタ−の柔らかい口調に私は笑って頷く。
店内を何気なく見渡せば、ついさっきまで居たはずのお客さんも居なくなっていた。
私が最後のお客さん、そう思うと不思議と嬉しさで満たされた。
「じゃあ、ご馳走様でした」
私は軽く頭を下げると、雨がまた降り出さないかと心配になり早足でドアへと向かった。
ドアノブに手を掛けるとドアの頭上に掛けられている鈴が鳴り出した。
お店から私が出るのと同時に後ろからマスタ−と仁王の「ありがとうございました」という多少高さの違う声が重なって聞こえた。
「マスタ−」
「どうしたの?」
「思いっきり傘忘れとる」
「仁王くん届けてあげたら?」
「レポ−トか片付いたらまた来るんじゃろ?」
「そうかもね」
「ならいい。のう、マスタ−」
カウンタ−席に忘れられたの透明傘を持っていた自分の手を仁王は静かに見つながら呟いた。