早く早く逃げなくては
奴に捕まる前に
もっともっと遠くへ
手の届かない場所に
A.S.A.P!(できるだけ早く!)
気まぐれなあの人はいつも突然私の前に現れる
その度心臓は大きく跳ね上がり、リズムを音律良く奏でていた脈は掻き乱される
綺麗に心地よく汚される心
完全に染まってしまわぬ内に誰か私を見知らぬ世界へと誘って
一歩、また一歩
静かに空気を震わせて奴は私に近づきつつある
どなたか私を連れ去って
授業の終わりを知らせる鐘が学校中に響き渡る
ここに居ては駄目だ
きっと絶対捕まってしまう
あの人は必ず私の二歩先
逃げようと必死でもがく私を見て心底楽しそうに口端を吊り上げる
鋭い全てを見透かすあの目が私の体にしつこく絡まって解けない
身動き取れぬ程私を縛り付けるその意味は?
問いかけた所で答えが返ってこないことなど知っている
いつもの様に喉を優しく鳴らして笑うだけ
そして奴の細身で長い手が私に向かって伸びてくる、ただそれだけ
授業で使った教科書とノ−トを乱暴に机の中へと投げ込む
中でガコン、と間抜けな音が聞えた
几帳面な私は中の教科書をやノ−トを綺麗に直したくて仕方がなかった
頭の隅でその考えを振り切ると椅子から立ち上がる
休み時間のためザワザワと騒ぎ出した教室
うるさいこの空間では一人一人が自分に夢中
皆の目に私が映っていないことを祈りながら急ぎ足で教室の外へと逃げ出した
いつもは授業が終わると同時に外す眼鏡
しかし今の私にそんな余裕はない
眼鏡を顔に貼り付けたまま私は歩く
余裕もなく眼鏡を外すことすらままならない自分に苛立つ
そんなことを考えてもどうにもならないと自分自身を叱咤しながら考えを振り切るように歩調を速めた
凄い勢いで私は廊下を歩く
ぐんぐん周りの景色を消し去って
まるで残像のように辺りに散らばるその空間
普段滅多に働かさない足を大きく踏み出し先へと急ぐ
速まるばかりのスピ−ド
止まることを知らない私の足はどんどん前へ
他愛の無い話に花を咲かせる女子の間を通っては、抜けて
途切れ途切れにその会話
所々でしか聞えないのは私が猛スピ−ドで廊下を歩くせい
自然と耳に入る会話は何処か温くて、湿っている
そう感じるのはきっと、仁王のせい
あいつが甘く低い声で私の耳元を犯す
とことん優しい声で囁いたりするから
そこ等の会話では私の耳は反応を示さなくなっていた
熱くなるのはあいつが、仁王が私に囁くときだけ
「、好いとおよ」
そんないつもの仁王の台詞が空耳となって私の耳に届いた
虜になっては、夢中になっては、駄目
だから私は必死になり逃げる
仁王に捕まらない内に遠くへと飛んで行く
あいつに落ちればもう最後
誰だって完全に逃げられない
長い廊下の曲がり角を曲がった瞬間だった
不意に伸びてきた長い手がグイっと私を掴む
仁王だと気付くのに全く時間は掛からない
危険だ、脳内信号が私に向かって叫んだが既に手遅れだった
やはり仁王は私の二歩先に居る
私とは正反対に整った顔には余裕の笑み
そして、この言葉
「ま−た逃げようとしたんか?そんなことしても無駄じゃけえ」
喉を小さく震わせてクックと笑う仁王
無駄だった、そう思い私は長い溜息を一つばかり零した
授業開始の鐘はとっくに鳴った
それにも関わらず私はこの廊下の曲がり角から離れられない
仁王が一方的に私の手首を強く握り離してくれないのだ
最初は強く抵抗したもの、力の強さで到底勝てる訳がなく暫くして潔く諦めた
私は呆れ果てた目で仁王を見つめる
それでも仁王はそんなことお構いなしに私を見て薄く笑っただけだった
いつもみたく何かを言う訳でもなく、ただ私の手首を握るだけ
誰かに助けを求めようとも今は授業中
もし仮に誰かが近くを通ったとしてもここは廊下の死角、見えるわけがない
授業に出なければ当然のように成績は下がる
当たり前のことだ
テニスで結果を残している仁王とは違って私は勉強で成績を残さなければいけない
部活にすら入っていない私はこうすることで成績を維持する
ここで積み上げてきた成績を落としてしまえば私が痛いだけ
そう思い、いい加減にしてと私が口を開こうとした時
「今日は珍しく眼鏡じゃのう」
見計ったかの様に仁王は私の口を片方の手で軽く覆うとそう言った
そして掴まれていた手首はいつの間にか離され私は自由の身
なのに、なのに体は一向に動こうとしない
自分自身に驚いた私は大きく目を見開き何でもお見通しな仁王の目を見つめた
「…逃げないんか?てっきりは一目散に逃げると思っとったけえ」
そう言いまた喉を揺るわせ笑う
目を細めて笑う仁王の姿に私は目を離すことができず呆然と立ち尽くしていた
そんな私を嘲笑うかの様に仁王は続ける
「そそられるのう」
私の考えは全てこいつに見えているのだろうか
それとも私が心を透かしてしまっているのだろうか
仁王の目が再び私に突き刺さる
相変わらず私は黙って静かに仁王を見つめるだけ
もう、遅いのかもしれない
一瞬不適にニヤリと笑ってみせて仁王は私の顔目掛けてゆっくりと顔を近づけてくる
動けずにいる私はビクリと肩を振るわせた
もう、遅い
私の目と鼻の先で仁王の動きは止まる
何もかもを見透かすその瞳に耐えられず視線を下に落とした
するといきなり視界がぼやけてユラユラと波を打つみたく揺れる
水面下にいる様な感覚に陥り少し焦って、でも何処か心地よくて
慌てて視線を床から仁王に上げると、いつもの様に笑ってみせた顔の隣に大きく掲げられた手
そこには私の眼鏡があった
「やっぱり眼鏡は邪魔じゃ」
私の耳元に仁王の唇が近づいて
「好いとおよ、」
甘い台詞に私は深く溺れる
決して掛かってはいけないペテンに掛かってしまってはもう逃げ切ることなど不可能
全てをこの唇に任せてみようか
私が崩れ、何時しか泣き叫ぶとしても
あの甘い水蜜桃の様な甘い台詞にどっかり浸かっていよう
本当は最初から捕まっていた、捕まえて欲しかった
でも私は逃げ切らなくちゃいけない
だから私は常に言い続けた
A.S.A.P!できるだけ早く!
(掛かっちゃいけない愛の罠)
あとがき**
仁王に騙されちゃいけないと分かりつつ溺れてしまう女の子
ASAPの意味を分かってから速攻思いついたこの話
できるだけ早くって意味なんですね
スラスラと書けたから良かった!